秩父夜祭の歴史とは?屋台と笠鉾の特徴についても!

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埼玉県秩父市で、毎年12月上旬に開催される秩父夜祭

このお祭りは、秩父三社の一つである秩父神社の例大祭であり、京都府の祗園祭、岐阜県の飛騨高山祭に並ぶ、日本三大曳山祭りに選ばれています。

例年の来場者数は約20万人以上で、地元の人たちだけでなく、県外からも多くの人たちがこのお祭りに足を運びます♪

 

さて・・

今では日本を代表するお祭りとなった秩父夜祭ですが、一体どのような歴史があるのでしょうか?

今回は、300年以上の歴史を持つ秩父夜祭についてのお話です^^

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秩父夜祭の歴史について

秩父夜祭の始まりは、定かではありませんが、江戸時代の寛文年間(1661年〜72年)頃には、すでに神事が執り行われていたと言われています。

かつて、秩父地方はクワの生育に適した土地だったため、養蚕や絹織がとても盛んでした。

そのため、お祭り期間中(旧暦11月1日〜6日)には、秩父神社に絹市が立てられ、絹織物などの取引が行われていました。

諸国からたくさんの商人が集い、大いに賑わいを見せ、絹市のおかげで秩父の経済は潤っていき、お祭りは大きく成長していきました。

 

秩父夜祭は、この絹市が発展していったものとされており、別名「蚕祭り」とも呼ばれていたり、当時は、旧暦11月に行われていたことから「霜月大祭」と呼ばれていました。

また、地元の人たちの間では、親しみを込めて「冬まつり」「夜祭」「妙見さま」と呼ぶ方もいらっしゃいます。

なぜ、妙見さまなの?と思った方もいらっしゃるかと思いますが、これは、秩父神社に祀られている神様妙見菩薩という女神だからです。

 

そうそう!

この妙見菩薩と秩父夜祭には、深い関係があり、こんな言い伝えがあります。

それは、夜祭の日に秩父神社の女神「妙見菩薩(みょうけんぼさつ)」と、秩父市に今も存在している武甲山の男神「蔵王権現(ざおうごんげん)」が、逢い引きするというものです。

この2人は相思相愛の仲だったのですが、蔵王権現には、諏訪神社の神様「八坂刀売命(やさかとめのかみ)」という妻がいたため、中々会うことが出来ませんでした。

しかし、なんとか年に一度だけ会うことが許され、その日というのが12月3日だったということです。

 

毎年、12月2日の夜には、お諏訪渡りという「神幸祭を行なうことを報告する神事」があるのですが、これは、蔵王権現と妙見菩薩が会うことを許してもらうための神事と言われています。

そして、12月3日に行われる御神幸祭の時に諏訪神社の前を通る際は、八坂刀売命を怒らせないように、お囃子の演奏を止めて静かに通過します。

このように、秩父夜祭の歴史や言い伝えは、今もなお受け継がれているんです^ ^

 

屋台と笠鉾の登場はいつ?

秩父夜祭では、豪華絢爛な4台の屋台2台の笠鉾が曳き廻され、お祭りを盛り上げます。

 

屋台と笠鉾が例大祭に登場したのは、諸説ありますが、亭保年間(1716年〜36年)頃と言われています。

当時から屋台や笠鉾の引き廻しや屋台狂言、歌舞伎など、様々な屋台行事が執り行われていました。

が・・

寛政11年(1799年)に、江戸幕府の風俗取締令によって、屋台行事が禁止されるようになりました。

禁止されていた期間は10年間で、文化6年(1809年)になると規制はなくなり、無事に屋台と笠鉾の引き廻しは再開されていきます。

また、明治39年(1906年)には、煙火(花火)が打ち上がるようになり、お祭りはどんどんと賑やかになっていました。

 

時代は移り変わり・・

秩父夜祭は、第二次世界大戦中は中止されていたのですが、終戦を迎えた翌年の昭和21年(1946年)には、屋台や笠鉾の曳き廻しや煙火の打ち上げが復活しました。

そして、昭和22年(1947年)に行われた秩父夜祭には、約10万人もの人たちが訪れ、今までにないほどの盛り上がりを見せました。

 

昭和30年(1955年)には、1000軒もの露店が出店されたり、サーカスや見世物など、様々な催しも行われるようになります。

この年は、豊作だったこともあり、関東各地から約10万人以上の人たちが足を運び、戦後最大の賑わいとなりました。

それからも、屋台と笠鉾のルートや花火の打ち上げ場所、時間などの変更を繰り返しながらお祭りは成長していきます。

特に、屋台と笠鉾は、年々豪華な装飾が施されていき「動く陽明門」と呼ばれるようになり、昭和37年(1962年)に国の重要有形民俗文化財に指定されました。

また、

  • 屋台と笠鉾の引き廻し
  • 引き廻しのための秩父屋台囃子
  • 屋台上で行われる曳踊りや歌舞伎

といった一連の行事が「秩父祭りの屋台行事と神楽」として、昭和54年(1979年)に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

一つのお祭りで、重要有形民俗文化財と重要無形民俗文化財に指定されているお祭りは、なんと!全国のお祭りの中でも5つだけなんです♪

そのうちの一つである秩父夜祭は、歴史的にとても価値の高いお祭りとなっています。

さらに!

平成28年(2016年)には「秩父祭の屋台行事と神楽」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。

秩父夜祭は、まさに今!注目を集めているお祭りとなっています^ ^

 

屋台と笠鉾の特徴は?

さてさて、ここからは、秩父夜祭を盛り上げる4台の屋台と2台の笠鉾についてご紹介いたします。

屋台と笠鉾は、秩父市内にある町がそれぞれ管理しており、屋台は、宮地地区(上宮地、中宮地、下宮地)、上町、中町、本町が、笠鉾は、下郷地区(永田町、柳田町、金室町、阿保町、大畑町、滝の上町)、中近(中村町、近戸町)が管理しています。

豪華絢爛な屋台と笠鉾は、形や特徴が異なりますので、見ていて飽きることがありません♪

また、4台の屋台は、左右に張出舞台を付けることで舞台に姿を変え、華やかな屋台歌舞伎を観賞することができます。

全国的にも非常に珍しいので、どうぞお見逃しなく!

それでは、屋台と笠鉾の特徴をご覧ください^^

 

☆宮地屋台
 秩父夜祭に登場する屋台の中で、最も古い歴史を持っており、妙見菩薩との関わりが深い屋台となっています。

 登り高欄がなく他の屋台よりも古い形をしていて、後幕に、中国に伝わる想像上の生き物である猩々(しょうじょう)が3匹描かれているのが特徴です。

☆上町屋台
 登り高欄と四つ棟造りの屋根が付いた比較的新しい屋台です。

 全ての屋台の中で最も大きな屋根が付いており、後幕には鯉の滝登りが描かれています。

 また、唯一、この屋台だけ方向転換の時にキリンと呼ばれる棒を使います。

☆中町屋台
 4つの屋台の中で、最大級の大きさを誇る中町屋台。

 屋根の上には、日本神話を題材にした彫刻「鬼板」があり、とても美しいんです♪

 中町屋台の後幕には、恵比寿が描かれた幕鯛が描かれた幕の2種類があり、12月2日と3日で異なる幕を見ることができます。

☆本町屋台
 明治・大正時代までは二重高欄という珍しい形式の屋台だったのですが、大正3年(1914年)に起きた転倒事故により、現在の高欄になりました。

 屋台には、たくさんの彫刻が施されていて、後幕には子どもの玩具ダルマの絵が描かれています。

☆下郷笠鉾
 元々の下郷笠鉾の形は、土台の上に3層笠を立てた造りで、秩父地方で最大の笠鉾でした。

 しかし、明治44年(1911年)に行われた電線架設の影響によって、大正6年(1917年)に、白木造りの2層屋根の形に姿を変えました。

☆中近笠鉾
 御神幸祭の一番最初に曳き廻される笠鉾です。

 構造は、八棟造りの屋根の上に3層の笠が立っており、高欄に龍がついています。

 明治44年(1911年)の電線架設後は、鉾を立てずに曳き回されてます。


深い歴史と伝統を誇る秩父夜祭。

約300年という歴史の中で、一体どのような出来事があったのか?を知ることで、きっと、より秩父夜祭を楽しむことができるでしょう♪

◎参考
秩父夜祭の基礎知識/秩父神社例大祭の変容と対抗(中村知夫)
秩父夜祭/秩父観光協会
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